レーモン・クノー『文体練習』感想
S系統のバスのなか、混雑する時間。ソフト帽をかぶった二十六歳くらいの男、帽子にはリボンの代わりに編んだ紐を巻いている。——
読んだ。
読んだ?
同じ内容、それも取り立てて書くようなことでもない一場面を99の別々な文体で書く。それだけで一冊の本になっているという珍しい作品。
ある日の正午頃、モンソー公園あたりを走るほぼ満員のS系統のバス(現在の八四番)の後部デッキで、私は非常に長い首をした一人の人物の姿に注意を引かれた。リボンがわりに編み紐を巻き付けた柔らかいフェルト帽をかぶっている。突然その男は隣の乗客に文句をつけはじめた。客の入れ替わりがあるたびにわざと足を踏んでいるというのだ。しかし男はすぐに議論を打ち切ると、あいたばかりの席に素早く腰を降ろした。
それから二時間後、私はサン=ラザール駅前でその人物の姿をふたたび見かけた。連れの男と声高に話をしている。友人のほうが彼に向かって、コートの襟があき過ぎているから、誰かいい仕立て屋に頼んでボタンをもっと上に付け直してもらうといい、とアドバイスしていた。
本当にこれだけの内容を、文体だけ変えて99回繰り返す。これは「客観的に」。最後の「意想外」だけは厳密には異なる内容かもしれない。
テクストの内容よりもそれを修飾する言葉、言語、文字、表現、つまり文体に意識を向けさせる仕組みになっている、らしい。異化効果っていうんですか?あるいはヤコブソンの「詩的機能」?賢く見せたいからと言って半可通な知識を振り回すものではないか。
くコ:彡くコ:彡くコ:彡<これはイカです。
一番の見所は訳者の技量だと思います。やはり元の言語と翻訳後の言語で違いがあるとどうしても訳せない、訳しにくい文体もあるのだけど(例えば単語の存在を前提にしたものとか)、あの手この手で工夫を凝らして一冊の本に仕上げている。あとは解説が丁寧で、文学に明るくない私でもそういうことなのか、と納得して読めた。旧版で読んだのだけど、印刷が大変そうだと思いました。全部含めて手間のかかっている作品。
その他
- 語頭・語中・語尾音消失はネタ切れ感がある。フランス語では普通なのかも?
- 枕草子をもってくる「古典的」はなんかツイッターっぽいと思った。こういうのありそう。
- 「英語かぶれ」は完全にルー語。
- アンサイクロペディアと同じ試みをしようと思って挫折した。まあ誰でもそうやってやろうと思うよね(実際にやったのは、偉い!)。
ミ(((( ゚< ミ(((( ゚< ミ(((( ゚< <これはエラです。
魚のアスキーアートをエラと言い張るのには無理がありそう。あとmarkdownで左向きの魚が描けない。右向きよりは左向きの方が魚に見えるのはなんでだろう。文字の流れと認識の流れが一致しない感じがある。AAは文字なのか図形なのか。言葉にはよく分からない機能がたくさんあるなあと思いました。