武田悠一『読むことの可能性』感想
「文学」を内面的な感受性、誠実性の世界と見る考えは、それ自体が一つの文学理論にほかなりません。
読んだ。
文学作品を読むと自分の「読む能力」の不足を感じることが多々ある。読むことの可能性。可能性を広げたい。そう思って読んだ。
かなりわかりやすい。フェミニズム的に読む?というのが著者の研究に関わっているようで、この本だけではよく分からなかったがそれについては続編が出ているらしい。でもとりあえず基本的なテクスト理論、批評の理論について知ることはできたように思う。
私的メモ
- 「異化」作用。そういうものがあるらしい。へー。言語そのものを前面化する。表される内容より、表す言葉の方が読者を惹きつける。詩とか。
- テクスト理論。本、作品は、作者に従属したテクストではない。作者、外部のテクスト(文脈?)、読者の3つの要素が相互に関連して生み出されるものである。これは『ウンベルト・エーコの小説講座』でも聞いた気がする。あっちでは読者の権利は無制限ではない(テクストには推奨される「読み方/読まれ方」がある)という論だったのに対して、この本では読者の役割を強調している。フェミニズム的に読むとか。
- 読者の役割を最大限に主張するのが続く受容理論。テクストには空白がある。読者が埋めるしかない空白を読者が具体化することを強調している。リドルストーリーとかが典型か。
- ここで「想定される作者」や「想定される読者」の概念が出てくる。「想定される作者」がテクストから作られ、それを作るのが読者という構図。だから二者は一緒というのはちょっと分からなかった。
- 構造主義。言葉は差異のシステムであるという説。
〈もの〉が言語の外にあらかじめ存在していて言葉はそれにつけられた名前にすぎないとしたら、別の言語にも「全く意味を同じくする対応物」があるはずです。
ここは分からない。別になくても自然だと思うが。全単射みたいな関係も仮定している?言葉が〈もの〉につけられた名前で、全単射じゃない写像をもつというのは何がよく無いのだろうか。
〔…〕記号は恣意的であり、それはそれが属する言語に特有な仕方で連続体を分割した結果であるから、われわれは記号を自律的な存在体として取り扱うことはできない〔…〕
- どんな写像もつくれるから自律的じゃないと言っているらしい。ふーん。
それで、構造主義が文学研究にどう貢献したか続く。個々のテクストではなくテクスト一般の規則を明らかにする。
- 文化を規則と差異のシステムとして捉える。
- 行為と文化の規則をパロールとラングの関係に移す。
- 行為を文化のコード上の記号としてみなす。
物語の形式の普遍性。規範的な形式と逸脱という規範。
私たちの物語への欲求を満足させるのは、〔…〕もっぱら、出来事の連続する構造、すなわちプロットであると言うことです。
脱構築。どこらへんが脱なのかは分からなかった。字義通りの意味と比喩的な意味の相反があるので、同一の文法構造でも相互に排他的な意味を生み出すらしい。
- ウェルベックの作品とかはそういう真逆のメッセージが込められてるよね。
「ある語の意味とは、言語におけるその語の使用である」
日記
ブログのテーマ(これはデザインのことです)をデフォルトから変えたいのだが、どれがいいのかわからない。いっそ自分でブログたてるかな。