小林真大『「感想文」から「文学批評」へ』感想
いかなる文学批評も、どの要素を重視しているのかという視点から、すべて六つのタイプに分類することができるのです。
読んだ。
このブログは全くもって感想文で、文学批評とかいうご大層なものではないのだが、それでも良い文章を書きたいなあという気持ちはある。良い批評というものがわかれば良い感想も書けるかもしれない。
本書は非常にわかりやすい文学批評の入門書である。この前、(一週間くらい前?)に読んだ『読むことの可能性』では分かりやすい文学批評の本だ!と思っていたのにもう手のひら返しをしている。こちらは高校生、大学生のためのと銘打っているだけあってさらに易しい。批評を6つの型に分け、それぞれの型について解説していくという本書の構成が既に分かりやすい。ただ、筋立てが分かりやすすぎるので誤解を招く簡略化とかが入っていると思う。多分。原子は最小の単位ですよみたいな。内容は結構被っているがニュークリティシズムとかメディア論は新しい知見だった。逆に『読むことの可能性』にあったテクスト理論とかは載ってない。
各章の構成は、批評方法の概要、その問題点、その後の発展という形で書かれている。
著者によると全ての批評は
の6つに分けられるという。博識な人なら、いや、この批評はどれでもないですよと例を挙げられるのかもしれないが、それでもほとんど、少なくとも私が読んできたようなものはこの中のどれかに当てはまるだろう。作家論の作品的批評が多かったかなといった印象。というか、普段から人の感想文しか見てないので批評というものをあんまり見てないのであった。
ちなみにこれはヤコブソンの言語機能と対応している、らしい。
作家論
まず作家論。これは作家の生涯を研究して作品を批評する方法。私小説なんかはこういう手法で批評することになるのだと思う。作家論的批評はさらに伝記的、風土的、作品的批評の三種類に分けられる。いずれも作家に注目するらしいが、作品から作家を見出す作品的批評は、実際の作者ではなく作品から生まれる作者を見ているから他とは毛色が異なると思う。
ハーシュの作家論、解釈と批評の違い。言葉の定義はちゃんとしたほうがいい。確かに。
「解釈」と「批評」の違いとは何でしょうか。「解釈」とは作者が想定した「作品の意味」を指します。〔…〕一方「批評」とは「今生きている私たちにとっての作品の意義」を指します。
ニュークリティシズム
詩に使われる言葉や技法の効果を分析する批評方法。
詩の美しさには統一性が大事らしい。個々の要素ではなく、要素間の関係が詩全体の効果を作り出している。主張は以下の3つ。
- 詩はそれ自体が独自性を持つ文である。
- 批評家の目的は「言葉の分析」である。
- 作家の意図や読者の感情を交えず客観的に評価すべき。
ただし以下の3つの問題点がある。
- 客観的な読者は存在しない。
- 小説を批評できない。
- 作品は社会的イデオロギーと切り離せない。
これらの問題点によって、言葉の効果だけを取り出すということはできない。ニュークリティシズムは衰退してしまった。
2についてはちょっと疑問があって、言葉の働きに着目するという技法は小説でも通用していると思う。例えば文体と呼ばれるものは言葉の使い方やそれが与える印象のことで、まさにニュークリティシズムが重要視した修辞的な要素なのでは。
構造主義
ソシュールの構造主義。個々の作品ではなく、作品全体を一貫した法則があるのではないかと提唱した。
主張は以下の3つ。
個人的には3は何を言っているか分からない。言葉とは無関係に現実世界はあるだろうと思う。でも言語が思考と密接につながっているというのは同意できる。
トドロフの物語の分類や、バルトの物語分析は作品によらない一定の構造を取り出している。分類はちょっと恣意的に思えるけど、物語を分類するにはいい土台になる。
トドロフは属性を状態、性質、身分に、行動を変更、違反、処罰に分けて、この組み合わせで物語を類型化した。バルトは
- 機能
- 枢軸機能
- 触媒
- 指標
- 指標
- 情報提供子
と階層的に分類した。
バルトによる演繹法の説明が間違っているように思った。演繹法ってそういうことだったっけ?
演繹法とは、先にある法則を仮定して、その前提が正しいかどうかを個別の事例によって判断する方法です。
演繹法って推論規則に従って正しい命題を得る方法だったと思ったけど。正しさを判断するならそれは帰納法になるのでは。この文ではただの仮説検定に見える。
構造主義によって「感受性」の地位が失墜したり、純文学と大衆文学の区分けが曖昧になったりした、らしい。
最後に構造主義の問題点について。まず、プロットの取り出し方、要約の方法は個々の読者に依存すること。次に修辞的な要素は抜け落ちてしまうこと。そして社会的な文脈を無視してしまうことを挙げている。
イデオロギー批評
作品の背後にあるイデオロギーを暴こうとする批評スタイル。
- バフチンの「ポリフォニー」。言語は社会によって決定されるため、政治闘争の場となり、社会集団は言語を自分たちの価値観に近づけようとする。
- マルクス主義。文学作品は作家個人の才能の表出ではなく、作家の社会的階級やイデオロギーの産物である。
「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」
マルクス主義は全てが階級闘争に還元される。ここからポスト・マルクスに派生していく。 ポスト・マルクスでは様々な社会集団の存在とその支配への抵抗に注目し始めた。その分派が女性の自立を訴えるフェミニズム批評や民族に注目したコロニアル批評。
イデオロギー批評はかなりのところ政治的であって、そのあたり、結構危うい批評っぽい。
読者論
文学における読者の役割を積極的に評価しようとする思想。
- ヤウスの読者論。読者は全くの白紙の状態で作品を読むわけではない。そこには先入観や予備知識がある。したがって、作品を読むにあたって読者はその物語がどうなるかある程度の期待をする。これを「期待の地平」と呼び、作品の評価はこれを参照点に行われる。
- イーザーの読者論。読者は空白を既知の価値基準や習慣的なコードで埋めようとする。すぐれた作品はこの無意識の価値観を打破し、新しい価値観を与えるようなものであるという。
- フィッシュの読書論。「真の作者とは読者である」。読者の読みの数だけ作品の意味がある。
最後の方に引用されている石原千秋の言葉はとても共感できる。
私たちは新しい何かだけを求めて小説を読むわけではなく、いつも通りの安心感を求めて小説を読むことも少なくない。疲れている時には、「期待の地平」通りに終わる娯楽作品を見たり読んだりすることで、心を癒したいと思う。それも小説読みの立派な権利だ。
というか、私がSFやミステリといったジャンルで本を選ぶのは「期待の地平」通りの作品を求めているからだと言える。そうじゃなかったら物理の論文でも読んでるだろう。
もちろんこの点は三者の読者論への批判になっている。文学作品を読むことはより良い自分になるための修行ではない。それが目的の読み方もあるが、そうではないものがあっても良いはずだという。その他にも、読者の読みが作品を作るなら批評は作品ではなく読者の解釈へのものになってしまうという批判もある。
メディア論
メッセージを相手に伝える媒体に注目する、らしい。
メディア論的に文学を見る例を挙げている。
まず出版社の話がある。作品は作家が作るが、出版社が拒否すればそれは読者には届かない。出版社は営利企業なので売れない作品は出さない。このあたりに純文学の衰退と通俗文学の台頭があったらしい。今ならkindleで個人出版するとかいろいろ手はあると思うが、それでも出版社の存在は依然として大きそう。
次に小説の情報伝達ルートの話。小説は活字(とあれば挿絵)によって情報を伝える。映画や演劇はもっと広く視覚に訴える映像で伝達してくるし、聴覚のルートも使える。この限定性が小説特有であるという視点は確かに面白いと思った。
コード化と脱コード化。伝達者(作者、出版社、テレビ局)は特定のメッセージ(支配的意味)を伝えようとする。このメッセージを媒体に乗せるのがコード化。一方読者はその媒体を受け取って好きなように解釈する。それは支配的意味に限らず自分なりに解釈される。これが脱コード化。
文学批評の意義
そもそも文学に良い悪いはあるのか。そこにあるのは好みだけではないのか。唯一無二の客観的な価値基準はあるか。こういう疑問は確かにある。筆者は(私にはかなりシニカルに見える)答えを提示していて、社会の多数派が下す評価が支配的なセンスであり、そのセンスによって作品を評価できるというもの。それでも作品の価値は決して絶対的ではなく、社会が移ろう中でその価値も変わっていく。価値は過渡的。その価値に影響するのが文学批評であり、それは社会のイデオロギーにも影響するかもしれないという締めくくり。
私は結構文学という学問に懐疑的で、作品の読解ができて、その意味が分かったところで何?となるしなぞなぞとどう違うのかとかも思ったりしていたので、社会的に意義があるんだなあと思えただけで良かったかもしれない(でも本を読んで思想に影響を受けてそれが社会現象に、なんて今時あるんだろうか?と思わなくもない)。
これから小説を読む上で、新しい視座が増えたように思う。ここに書かれたことは小説だけでなく映画なんかにも通用するものがあるので、色んなものについてまた違った読みができるかもしれない。