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感想を書く。SF、ミステリ、それ以外について。

円城塔『Self-Reference ENGINE』感想

全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれる。

読んだ。円城塔初挑戦。

時間軸たちがぐちゃぐちゃになってしまった世界たちにおける物語たち。この設定には高橋源一郎を感じる。最近読んで印象に残っているだけかもしれない。『さようなら、ギャングたち』は確かなものがなくなった世界の断片を集めたような話で、やっぱり似ているような気がする。これも断片を集めて書かれた感じがあるし。どうなんだろう。文章は高橋源一郎とは違って、詩的な感じはなく、普通小説の一人称で書かれているし、SFのコードに従ってゆるく全体を貫いている物語もある。半連作短編集といった風味。

一応SFなだけあって、その特徴はある。時間の構造を壊してみたり、ハノイの塔のようなパズルに言及したり、そのあたりはSFらしい。AtoZ定理(Aharanov-Bohm効果から着想を得たのだろうか?物理だし。)とか床の下から22人のフロイトが出てくるとか人間を遥かに超えた人工知能が江戸っ子になって喜劇をやるとかバカSF的展開も含まれている。

しかし作品の方はかなり難解である。分からない時は先達を頼るに限るので、「Self referenece engine 感想」で検索した。うーん。結局みんなよくわかってない感じらしい。まあそうですよね。ただ、そのわからなさはSF的なわからなさではなく、実験文学的なわからなさだと思う。

あらすじのようなもの

  • 「イベント」によって時間軸がバラバラになり、それに伴って世界もまたバラバラになった。
  • それぞれの世界は時間軸を統一するために他の世界と演算戦を行っている。
  • 一つの宇宙に一つの巨大知性体(演算能力の向上を突き詰めた結果、自然そのものを演算に使い、演算そのものが自然現象になった知性体。リザバーコンピューティングの究極版みたいなやつ)が存在する。ただ、こいつらが自然現象にシフトをしたせいで時空構造がバラバラになったとで書かれている。
  • そしてこいつらがバラバラになった時空構造を一本に戻すべく戦いを始める。この戦いも変な時空(時間も移動できる時空)で行われる。
  • それから、巨大知性体よりも優れた超越知性体が出てくる。巨大知性体たちはこいつに対するコンプレックス(?)を抱いていろいろと試行錯誤し出す。
  • なんやかんやあって、巨大知性体は存在しながら滅亡していることが発覚する。何?
  • 一応最初と最後の短編、BulletとReturnで対応していて、これまでのお話はリタとジェームズに関係するお話と関係しないお話だったんですよ、みたいなオチがついている。

感想

  • Self-Reference Engineの名前の通り、自己言及的な構造が多い。それが数学的、論理的な構造と組み合わさってこんがらがっている。SFが好きな人が好きな構図。エッシャーの左右の手のように、お互いがお互いを書く騙し絵のような構造になっている。作者が書いた作者が書いた作者に書かれる。法則を改変できる巨大知性体を支配する法則は同じ階層にある。狂ったマシンが自己再生産する狂ったナノマシンを作る。あるいは、もっと単純に、自己言及して消える文章。

  • 全体的にゆるい連帯感を保った断片集。でもフロイトは何?何が起こってるの?となった。そういうのがたまに入る。本当に何。

    フロイトが大量に出てきたことにフロイト的意味なんてないだろう

  • もとから意味がないのか、意味がわからないのか、どちらなのかわからない。特に「Disappear」から「Self-Reference Engine」での否定形を重ねる文章はスタニスワフ・レム『完全な真空』の「とどのつまりは何も無し」を連想させる。語り手も「機械仕掛けの無」を自称してこのお話たちが「どたばたの無限の連鎖」と言っているし。強いて言えば物語を語ることについて語っているメタ小説だと思います。私たちが読んでいるこの小説は存在しないSelf-Reference Engineの存在しない抜け殻。

    • ここで自虐が入っている。自分で言うのか、それ。

      もしかして、と巨大知性体群は考える。自分たちの物理基盤層は本なのではないだろうか。巨大知性体とか大仰な名前で呼ばれるわりに、自分たちはそれほど賢くはないような気がしないだろうか。自分たちがそれほどには賢くないのは、著者の頭が悪かったからだ。

  • 「Infinity」はケン・リュウの「数えられるもの」と似て実数の稠密性(あるいは連続性)をテーマにした良作SF。こちらは感動的な終わり方。甲乙つけがたい。

その他

  • 最初の、

    全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。〔…〕そして勿論、それはあなたの望んだ本ではない。

    という文章は、最後、「Self-Reference ENGINE」の決して言及し得ないと言う性質と対を成していそうではある。全ての本はその中に含まれているのにSelf-Reference ENGINEは含まれない。文字(文章)と物語の違い?違うかな。

  • 一人称で思考中心の文章が印象に残った。なんか自意識過剰みたいになるので個人的には好きじゃない。一人称で文章を書くにはその人(あるいは人以外)が独り言をいうかなんか思索するかしかない。こういう無駄に饒舌な文章はちょっと苦手。

    • (全く主観的な感想だが)私は分かりやすい会話劇の方が好きなのだ。
  • 「Writing」は結局どこに繋がってたんですか?あるいはその先は語られないお話なのかもしれない。

  • 面白かったのは「A to Z Theory」、「Yedo」、「Fruid」。ふざけた話が好き。「Infinity」も良かった。別に何か隠された論理があったり最後にどんでん返しを食らう、と言う物語でもない(あるのかもしれない)ので、普通に短編集として読んだ。

-「Infinity」の以下の式で間違っている( t ではなく ct が正しい)という指摘があって一瞬なるほどと思った。

四次元空間を等速で飛行するこの四次元太陽球がリタたちの時空を突っ切るときに見せる半径は、大雑把に言って時間 t に対して[tex: \sqrt{R2-t2}] で変化する。 R は太陽の真の半径だ。

が、 R は四次元空間での半径なので c が適当なスケーリングになるわけではない。 c が必要なのは相対論では。強いて言えば「等速」とのことなのでその速度をかける必要があるといえばある(この速度が1となるような単位系をとっていればその必要もない)。単純に超球の断面はそういう風に変化するよね、というだけの話っぽい。最初、四次元空間を四次元時空だと勘違いして「等速」ってなんだよ、と思っていた。

おまけ——円城塔について

以下の文章は追記である。上の感想を書いてから時間が経っていて、改めて読んでみると我ながら何を言っているかよく分からない。というか、tex記法が不発していた。だめじゃん。どうするんだこれ。でも高橋源一郎とかを引いているのは筋が良い(自画自賛)。よくわからない文章なので、そのうち書き直すかもしれない。多分。きっと。もしかしたら。それはそれとして、円城塔の作品もまた、よく分からない。分からないので分かってやろうと思い、色々調べた。この追記は円城塔は何を書き、何に興味を持っているのかという点を探ったものである。といっても全作品読んだ訳でもないので以下の文章の正しさのほどは保証できない。などと予防線を張って……。

円城塔は何を書いているのか?

円城塔の書くものは訳がわからないと評判である。確かに。ソーカル論文よろしく、煙に巻くような語り口と散りばめた理系的要素、膨大な知識に任せてペダンティックで意味のない文章を読者に読ませているだけではないかという問いがある。そうかも。しかしこの問いには、意味がわからないのはお前の頭が悪いからだというもっともな反論がある。そこで客観性を得るために芥川賞を受賞した『道化師の蝶』の選評を見てみる。私自身は読んでいないのでやや的外れかもしれない。

prizesworld.com

今回の「道化師の蝶」で初めて私は、「死んでいてかつ生きている猫」が、閉じられた青酸発生装置入りの箱の中で、にゃあ、と鳴いている、その声を聞いたように思ったのです。」

声を聞くのは観測に相当するので声が聞こえた場合猫は生きている。ソーカル的茶々はともかく、ほとんどの評者が「訳がわからない」と言っているように見える。小川洋子の評を引用しておこう。

「小片たちがつなぎ合わされ、一枚のパッチワークが縫い上がり、さてどんな模様が浮き出してきたかと楽しみに見つめてみれば、そこには模様など何も現れていなかった。」「もし自分の使っている言葉が、世界中で自分一人にしか通じないとしても、私はやはり小説を書くだろうか。結局、私に見えてきた模様とは、この一つの重大な自問であった。」

つまり、作者にしか分からない文章というものを書いているのではないだろうか。個人的には公開鍵だけを渡されて読まされているというのが、この状況を表すのに一番適している気がする。著者だけが知っている秘密鍵があり、それがあれば(あるいは強引に公開鍵だけから推測できれば)物語は意味を明らかにするのだが、作品単体ではその意味を読み取れない。

冒頭の問いに答えると、円城塔は必ずしもソーカル論文のように意味を持たない文章を書いているわけではない。一方で、その意味は読者には実質的に明かされないのでテクストそれだけを見れば実質的に意味のない文章であるように見える、のだと思う。そういうものを書いている(あるいは特に慎重な一部の読者ならその意味を読み解けるのかもしれない。しかしそれも非常にハードルの高い要求だろう)。

円城塔は何に興味があるのか?

円城塔の作品は一応SFに属すると言っていいと思う。そして純文学に接近している。

SFがテーマにするものは色々ある。例えば一つには、スペキュレイティブ・フィクションと呼ばれるような作品の集合があり、その一部に、人間そのものについて考察するような話をSFの道具を使って描き出すものがある。テッド・チャンやピーター・ワッツは自由意志をテーマにした話をよく書くSF作家だ(その結末は対照的なのだけど)。では円城塔人間について考察しているのか。もちろん違う。語り手が人間ですらないことも多い。文字とか。数学的構造とか。語り手が人間である場合もかなり没個性的、というか「顔のない」人物が多いと思う。

あるいは社会に対する風刺というものもある。地球温暖化の進んだ世界、石油資源の枯渇した世界、科学技術による格差社会が固定化した世界。これは古典的なテーマで、有名な『タイムマシン』、『1984年』から現代に至るまで多くのSFが扱ってきたテーマである。では円城塔は社会を描いているのか。これは描いていない。全く描いていない。物語はモノローグで進むし、説明されるのは社会の構造ではなく世界の構造である。熱力学第二法則すら出てこない(これは出てくる作品もあるかもしれない)。

ではSFにおいて何を書いているのか。無限や入れ子や自己言及は確かによく用いられるモチーフだが、わたしはそこがテーマにはならないと思う。円城塔は書くことについて書いている。あるいは語ることについて語っている。小説の表現、言語に興味がある。そう思える。そして言語への探究が純文学らしさへとつながっている。先程の芥川賞の選評から島田雅彦の評を引用しよう。

「それ自体が言語論であり、フィクション論であり、発想というアクションそのものをテーマにした小説だ。」

この言語論とかフィクション論とかいうものの中で、円城塔は新規分野を開拓している。この探究は大きく分けて二つの方向を持っている。物理的なメディアである小説の探究と、小説の構造に対する新機軸の打ち立てである。

物理的メディアとしての探究としては『文字渦』が挙げられる。漢字を創作したり、文字を合成したり、字面で間違い探しをしたり、ルビで語ってみたり。これは小説というメディアをかなり物理層寄りに探求している試みで、従来の文学とは異なる方向に突き進んでいる。この探究はさらに進んで、小説について、フォント、段落といった組版から書き込みやページの折れといった極めて個別的な性格まで言及する。しかしこれは「メディア論」が探求する方向に近いので、全く新しい方向に進んでいるというわけではなさそう。

もう一つには純粋に小説に用いられる言語機能への探究がある。円城塔の作品の多くはプロットの起伏がない。語るべきテーマもない。美文を書いて詩的作用を使おうという目論見もない。プロットがなく、主題がなく、詩がなく、あるのは構造だけである。これはもちろん意識的で、作品を指すときに「物語」ではなく「お話」を意図的に使うのはこのあたりに原因がありそうだ。これらの作品ではプロットの代わりに面白い構造を提示して説明することで文章が進む。その話自体にも面白い構図を仕掛けたりする。『Self-Reference ENGINE』もそういう書き方がされていると思う。極め付けは『Boy's Surface』で、メビウスの輪チューリングマシンをそのまま物語の構造として採用している。このアプローチが成功しているかはともかく、数学的構造を小説に落とし込むというのは新しい可能性を秘めていて、SFによる文学の探究としてはかなり面白いものだと思う。

元々物理屋さんだった関係で自分の小説は形式が強いと思っています。そもそもお話には型があるんですよね。起承転結とか、序破急とかが、きっと人間が受け取り易い形なんです。でもそれだけじゃないだろう、新しい形式で伝えやすい内容がきっとあるはずだと考えています。ですから小説を書く作業は外枠を決めていって中を埋めていく感じが強くあります。ただ、どこまで思考だけで押していいか、どれだけ形式だけでいいものかと考えています。

このインタビューには小説がプロットを伝達するだけの存在ではない、新しい形式を探究しよう、という意識が感じられる。純文学にあるような言葉へのこだわりともまた違う。文章の仕組み自体をいじくり回している。システムへの興味があるというのは「物理屋さん」的だと思う。

最後にまとめると、円城塔は従来の小説が競ってきたプロットの巧みさや文の美しさ以外の、新しい小説の評価軸を創造することに挑んでいると言える。SFに対して科学的知識を題材にすることはあっても、文学に対して「物理屋さん」的なアプローチをする円城塔のような作家は希少だと思う。全く新しい形式の文学、そういうものができたら良いなあと思います。

参考にしたインタビュー

その他2

他に読んだやつの感想。感想の掲載日時とは逆順に読んでいる。

akinesia.hatenablog.com

akinesia.hatenablog.com