あかいねじ

感想を書く。SF、ミステリ、それ以外について。

円城塔『Boy’s Surface』感想

ここに本来書かれているものは、今見えている文章では全くない。

読んだ。

Self-Reference ENGINE』を遥かに越える難しさだった。一応SFに分類したが前作同様実験文学の色が強い。良くも悪くも癖の強い作品。

Boy’s Surface

用語

レフラー球:人の視覚認知系をハックして錯覚を起こす数学的構造物。その図形は変換を行う基幹部分と変換を受ける被変換部分からなる。基幹部分はレフラー球と呼ばれる幻視球体レンズを生成し、人間はそのレンズを通して図形を見るために、その図形を文字列として錯覚する。

トルネド:レフラー球の無限の連鎖によって構成される複雑な構造。

あらすじ

物語はレフラー球を「発見」したアルフレッド・レフラーとその最初の恋人であるフランシーヌ・フランスについてレフラー球自身が語る。このレフラー球は高次元レフラー空間を探索する、アルフレッド・レフラーが作ったレフラー球であり、レフラー球による無限の変換の果てが全て一致することを目指してトルネド構造を突き進んでいる。

感想

  • 題名はボーイ曲面(メビウスの輪)から。最初の図はメビウスの輪の展開図。トーラス座標で指定したときに節題と対応するものになっている。
  • 見えるものと物自体の違いをレフラー球による変換と錯覚というモチーフで描きだす。

「あそこに見えるものは何ですか」 彼女は本をぱたりと閉じて、素直に空を見上げてみせ、そのまま三秒ほど沈黙した。 「天蓋」

  • もちろん空には何もない。空を指して天蓋というのは人間がそこに無いものを見ていることの承認になる。

  • 数理的構造と恋愛の構図の一致が見て取れる。アルフレッド・レフラーは盲視の数学者であり、従って誰かを「見る」ことはできないし、そもそも目が見えていたとしてもそれは同じことだ。レフラー球が観察者と対象物の間に存在して基盤図形を認識できないように。しかしレフラー球の無限の変換の後、極限においてある人物を愛することと想像上のその人物を愛することは一致するとレフラーは考え、その試みを受け継いだのが語り手のレフラー球である。このレフラー球が証明することはレフラーの正しさであり、その愛の方法の正しさである。

    • ……と思ったのだけど、これは作中ではっきり否定されていた。えー。

      それは一体何の成就となりうるのか。レフラーの初恋。それは最もありそうにない。

    • となるとこの無限ループそのものに意義があるとする意見に与したくなる。トルネド構造を巡り、2人は永遠に決別と邂逅を繰り返す。
  • 各章題はトーラスを用いた極座標と対応している。最初の図形の座標を40で割ればこの数字は一致して、物語の構造と同じ形になる。レフラー球をめぐる話とレフラーをめぐる話が交互に現れる構造。同時にこの図形はメビウスの輪を意味していて、同じことが二つの領域で(つまり表と裏、現実世界とレフラー空間で)起こっている、しかもそれが無限に循環していることを暗示している。後書きにそう書いてあった。永劫回帰っぽい。

何かが起こりうるのは、それが繰り返しの可能な構造を持っているからであり、実際に繰り返されているからであるとするのがレフラーの見解である。

  • まだ分かりやすい。

Goldberg Invariant

あらすじ

新造された計算機GRAPE。その使い途として霧島梧桐はテキストベース仮想空間をシミュレートしてそこで新しい定理を発見することを提案する。この提案は受理され、この世界にキャサリンと呼ばれる自動定理発見機、あるいは言語機械が投入される。キャサリンたちはそこで既存の枠組みに存在しない代替数学の遺物を発見する。梧桐は失踪し、代替数学は既存数学への侵略をはじめる。

感想

  • “Goldberg variant”をもじった題名。最初の図形は章番号と対応している。章番号は時系列に沿っていて、矢印の順番に語られる。一種のカットアップ。また、梧桐(Godoh)の名前は『ゴドー(Godot)を待ちながら』から取られていそう。ゴルドベルグ(キャサリン)は梧桐を待っている。

  • 話の内容はグレッグ・イーガンの「ルミナス」、「暗黒整数」に近いと思った。異なる物理、数学法則の侵略。ただしその世界設定に円城塔らしさがあらわれている。

  • テキストベース仮想空間。小説は文字を媒体とするメディアであり、ここに特異性がある。メディア論らしい発想。物語ではなく文自体を探究する。

例えば、宇宙の全素粒子数に匹敵する数の火星人の侵略とか。映像化は原理的に不可能ですが、そんな文章を生成することは簡単です。

  • まず連想したのはミステリの叙述トリック。信頼できない語り手を映像化するのは不可能ではないにせよテキストほど簡単ではない。次に考えたのがスタニスワフ・レムの『完全な真空』(もちろん『虚数』でもボルヘスでも架空異常論文でもいいのだけど)。文章自体に含まれる困難性、不可能性によって書き得ない何かですら、文章自体を架空のものとして入れ子構造をつくることで書き出すことが可能になる。文章の表現力が論理的矛盾を軽く越えられることは短編中でも言及されている。

  • 分かりにくい文章の中に分かりやすいジョークが挟まれる。放電する鼠。円周率が3.78まで上昇。こんなこともあろうかと。この辺りはおなじみの手管。

  • 図形と物語の構造はただのカットアップというのであれば分かりやすいが、それだと素朴すぎる気もする。分かっているのかが分からない。

    • 追記。やはりこの解釈でいい気がする。著者解説でこの短編は「解析接続的」だとされていて、物語の時系列、章立てという一次元の構造を二次元図形で拡張しているのはいかにも解析接続的ではなかろうか。
    • 代替数学が既存数学の領域に落とした影であるところの円柱は、二次元の渦巻模様に沿って並べ直された章と対応している。代替数学vs.既存数学とバラバラの章立てvs.時系列的章立ての対比。
    • それはカットアップですよね?と言われたら、そうですね、となるけど。

Your Heads Only

あらすじ

9つの断章から成る、関連性がありそうで実はそんなにない断片集。

感想

  • チューリングマシンのヘッドと”Your Eyes Only”を掛けたタイトル。最初の図形はチューリングマシンが互いのテープ読み合っている?ように見える。

  • あるいは読者論。テクストのみでは物語は語られず、読者の存在によってはじめて物語は構成される。したがって、物語は読者の頭の中にしか存在しない。

現在の私は、漠然とした禁止集合を利用して、あなたを用いて曖昧な計算を行い、ようやく自分を支えているにすぎない。

  • はじめに提示される3つの規則(実質的には1つ)は計算論でいう「言語」を定義していて、この規則に従った読み方をした場合、示されているように特定の黒白列のみが受理される。計算論をモチーフにしていて、ライフゲームなんかにも言及しているが、この言及が物語中で役割を持つかは知らない。自己再生産は確かにライフゲームっぽいが。

  • 指示に従うと仮定すれば、読者はチューリングマシンともその入力とも取れる。物語を入力と見て最後まで辿り着ければその物語は受理される。この時読者はチューリングマシンである。逆に、読者の読み方(これは記録された白黒マークの履歴)が適切なものになった場合 にそれが受理されると考えれば、チューリングマシンは物語の方であり、読者の読み方(の白黒マークの履歴)がその入力である。

  • この構造を作りたかっただけでは?という思いは否めない。指示に従う読者はいるのか。

Gernsberg Intersection

あらすじ

未来に待ち受ける特異点を回避するために左旋回した世界の話。数学少女は軍に駆り出され、夢の世界では男女が逆転したボーイ・ミーツ・ガールが起こる。

感想

  • 最初の図は世界が旋回する様子を描いている。各章はじめにある図を重ね合わせるとその章がどの段階に対応しているか分かるようになっている。

  • 時間方向への移動というのもお馴染みのモチーフ。と言ってもまだ『Self-Reference ENGINE』しか読んだことないけど。

  • 多世界解釈の解釈が面白い。古典的な世界が重ね合わさっているのが量子力学ならば、その古典的な世界も量子力学が成り立ってしまうことがあるかもしれない。古典と量子は無限に後退していく。

  • 読んでいて一番分からなかった。結局のところどうなんだい、と言われると、どうなんだっけ、となる。

What Is The Name Of This Rose?

作者による後書き。解説。これ自体も一つの短編然とした雰囲気がある。まさしく作者としての解説であって、理想的読者によるテクストの読解というよりも経験作者としてテクストをどう書いたのか、といったところを話している(もっとも、この解説中では作者が経験作者ですらない体をとっているので、これは間違いかもしれない)。解説と言いながら読者の自由な読みを推奨しているような書きぶりである。

ビー玉と第一短篇の照応が存在するならそれは偶然の出来事だ。わたしにとっては。

ここでいう「わたし」とは作者としてのわたしであり、読者としてのわたしではない。だから読者がそこに照応を見て取ったとしてもそれは偶然だと否定できない。

そこに記されている言葉を展いていく以外の本の読み方などは存在しない。

一方でこんなことも書いている。これは読者がそのまま感じるように本を読めばいいんだよ、とも、テクストの解釈はテクストが定めるもののみであり、それ以外の読みは存在しないというテクスト論に立っているとも読める。

〔…〕 一度書かれてしまった本は決して閉じることができず、どれほど閉じ込めようとしてみても、どんどん増殖していくものなのだ〔…〕

それでも豊かな解釈が生まれることは否定しないらしい。書き方を考えれば当然ではある。

ウンベルト・エーコ薔薇の名前』との対応をほのめかしている。解説タイトルもそうだし、各短編も『薔薇の名前』に出てくる写本と対応すると言う。しかし「薔薇の名前」は"rose"があらゆるものを意味する言葉であるが故に何かを意味する言葉ではなくなること、つまり何物でもないものを意味している。前作『Self-Reference ENGINE』でも「機械仕掛けの無」なるものが登場したように、円城塔はなんでもないことを書いているのかもしれないと思う。


円城塔の作品はなぜ難解なのか。語り口が遠回りで冗長だから?散りばめられた要素が衒学的だから?ストーリーがないから?物語の構造が数学的だから?どれも一理ある。それでも最大の理由は作者が読者を突き放しているからだろう。読者に伝えることを放棄している。これは悪いことではなく、自由な読みを大いに推奨する試みになっている、と思う。作者解説からもそんな雰囲気が漂っている。

文学はなぞなぞに近いと思っている。作者はそこに読み取られる何かを隠して、読者はそれを読み解こうとする。何かは特に高尚なテーマとかでなくても構わない。小説を書く、読むといったときにはこの暗黙の協定がある。それを踏まえて『Boy's Surface』を見ると、これは読み取れるようになっているのか?というものが多い。なぞなぞにも限度があり、「一週間前の私の夕食はなんでしょう?」といった問題は難しい問いだがなぞなぞではない。なぞなぞは解かれる可能性をある程度残しておかなければならない。『Boy's Surface』はヒントもあるしこれほど理不尽ではないが要求水準が飛び抜けている。これを読み解ける慎重な読者というのはどれくらい存在するのだろうか。もちろんそんな協定はないと言って自由に書く作者がいてもいいし、読者だって自由に読めばいい。

この感想を書くにあたって、他の人の感想や書評を検索したりしている。的外れなことが書いてあったりすると奇声を上げてキレ散らかしたりする。嘘だ。みんなもっと感想を書いて欲しい。今回参考になったサイトを以下に挙げる。「Your Heads Only」がマルバツゲームになっているとか書いてある。これって分かる人には分かるんですか?あと、一番多かった感想で、円城塔は分からないから面白い、というものがあった。そう言う見方もありますね。

参考になったサイト

yocifico.hatenablog.com - 円城塔の解説に言及がある。マルバツゲーム。あと、「Goldberg Invariant」の最初の図形についても。一本線で書かれたシンプルな迷路が元ネタらしい。

www.webdoku.jp - 円城塔のインタビュー。「Goldberg Invariant」で小説を書くことを勧められる描写や、「Your Heads Only」での研究生活に対する言及は多分に私小説的要素が含まれていると思う。そういうの。