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ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの小説講座』感想

「クリエイティブな作家」とよばれる人々は、自分の作品についての解釈をけっしてあたえてはいけないということです。テクストとは、読者に仕事の一部を任せたがる怠惰な機械なのです。言い換えれば、テクストとは、多様な解釈を引き出すための装置なのです。

読んだ。

ウンベルト・エーコは本職研究者で50歳近くに作家デビューを果たした。副題に「若き作家の告白」とつけているのはこのため。研究者としてはプロでも作家としてはアマチュア(それでも28年書いている)とふざけて言っている。本書の中でもエーコのユーモアあふれる文体が優しく読者を誘ってくれる。

高橋源一郎が『小説の読み方、書き方、訳し方』でおすすめしていた、と思ったらリストになかった。リストじゃなくて対談の中で触れてたっぽい。あと、『言語の七番目の機能』にも出てきたウンベルト・エーコジャック・デリダジョン・サール(最近セクハラで追放されたらしいね。)の論争とかについても触れていた。少しだけ。ここら辺の繋がりで読んでみた。

結構面白い。小説講座、というと書き方、小説作法について説明しているようだが、実際には書き手ではなく読み手に有益な一冊。 元のタイトルは副題の「若き小説家の告白」だったらしい。だから小説講座っぽくないのかな。

ところどころユーモアがあって楽しく読める。特に第二章の「作者、テクスト、解釈者」が面白かった。第一章ではエーコ自身がどのように著作を書いてきたか、第三章ではフィクションの登場人物について(例えばなぜ読者は架空の人物に感情移入するのか)、第四章はリストについて。

テクストの権利

読者は「モデル読者」として、「モデル作者」の意図を最大限に推定するようテクストを解釈すべきである、とエーコは主張している。未定義語を使ったせいでよくわからない。ので、これから説明していく。

表現について。例えば多義的な表現は、

  • 多義性に意味はなく、テクスト理解を困難にするから、取り除いた方が良い。
  • 意図的に多義性にテクスト読解上の意味を持たせたので、作者の想定内である。
  • 意図的ではないが多義性がテクストに有用なので、作者の想定外だが残した方が良い。

の三種類がある。このように、テクストはまず作者の意図から離れる。そのため、エーコは「経験的作者」と「モデル作者」の二種類の概念を用意している。前者は実際にテクストを書いた作者で、テクストに意図しない表現を混ぜてしまうかもしれない作者。後者はテクストの全てを意図していた(仮想的な)作者で、テクストのみから事後的に導かれる。

エーコはテクストの解釈は読者に任せられるとしながら、その解釈は無限ではない、制限があると言う。

読者がテクストについて疑問を抱いても、それを作者に尋ねるのは無意味なのです。ただし、読者が各々の思いつきに任せてどんな解釈をしてもよいというわけではありません。テクストが、ある特定の読み方を、妥当だと認めているだけでなく、奨励もしていること。そのことを読者は確認しなければいけないのです。

つまり、読者は「モデル作者」の意図どおりの解釈を推測しなければならない。というのがエーコの主張である。「モデル作者」の意図に対して無限に推測を試みる権利を持つ読者を「モデル読者」とよび、誤読しうる実際の読者を「経験的読者」としている。エーコ自身が「開かれた自由な読解」として解釈者(読者)の能動的な権利を強調したけど、みんなもう一つの権利、「テクストの権利」を忘れてない?という感じの論調。テクストは無限に開かれているわけではないよと言う。例として、「ジョンは〜を食べている」と言う文の「〜」に入るのは名詞、それもなんらかの意味で食べられる物に限られるでしょ?と言っている。

しかし「経験的読者」はいろんな誤りを犯す。「経験的読者」はテクストを自分の情熱の表現に使う。私が連想したのはフロイト。なんでもリビドーとか抑圧とか言っとけばいいと思うなよ。こんな風に書くのもまたテクストの私的な利用。テクストの読解とはゲームであり、「モデル読者」は「モデル作者」の意図を推測すると言うルールに従う人のことを指す。もちろん、逆に「経験的作者」が犯す誤りもある。テクストの表現が作者の意図しない印象を与えたなら、解釈は作者の意図よりテクストの意図を優先すべきだ。これもルールになる。作者は解釈に口を出せない。

読むと言う行為について

エーコによれば、あらゆる読書行為は「読者の能力」と「テクストが前提とする能力」の複雑な取引らしい。私が文学作品を読んでも意味がわからないのは、私の言語能力が限られているからだ。確かに。「テクストが前提とする能力」は以下のように説明されている。

「合理的」な読み方(テクストの理解と楽しみを高める読み方、そして文脈によって支えられる読み方)でテクストを読むために前提とされる能力のことを意味しています。

テクスト解釈の妥当性

それでは、「合理的」な読み方、妥当なテクストの解釈はどのように決まるのか。それはテクスト内の一貫性で決まるという。

テクスト内の一貫性こそが、読者の制御不可な衝動を制御しているのです。

ある特定の部分の解釈が正しいかは、他の部分によって裏付けられるかで決まる。

先ほど書いたように、作者(経験的作者)の側から言えば、テクストは自分の意図に沿って解釈されるとは限らないことに注意しなければならない。テクストは読者の言語能力、その言語の運用によって生み出された文化的慣習、他のテクストたち、それら全ての相互作用の下で解釈される、とエーコは続ける。

この二者、読者と作者の解釈と意図は「テクストの明白な意図」によって妥当かどうかふるい分けられる。このテクストの優越性こそがテクストの権利である。テクスト・ファースト。

その他

  • (作家によって)書かれた全てのものは他人へ向けたメッセージ。独白ではなく対話。
    • 作家の書くものはそうかもしれない。私の書くものはそうではない。
  • 「二重のコード化」について。
    • 「間テクスト的アイロニー」と「暗に含まれるメタ物語の魅力」を同時に用いること。少数のエリートと大衆に別々のコードを用いて語ること。

      「二重のコード化」のテクニックを用いることによって、作者は洗練された読者とのあいだに共犯関係めいたものを気づくことになります。実際、一般読者の中には、こうした「教養あるほのめかし」をとらえることができず、何かがすり抜けていくように感じてしまう人もいるかもしれません。ですが、文学とは、わたしが思うに、ただ単に人を楽しませたり慰めたりするだけのためのものではないのです。もっとよくテクストを理解したいと読者の思わせ、二度、あるいは何度でもテクストを読ませるように、読者を挑発したり誘ったりすること。それも文学の目指すところなのです。ですから、「二重のコード化」とは、知的エリートの悪癖なのではありません。それは、読者の知性や意欲を尊重していることを示す方法なのです。

  • なるほど。
    • 意欲はともかく、内輪ネタを理解できるようになることが知性なのかは微妙だ。でもこのことについて初めて腑に落ちる説明を読んだ。

      テクストを使って夢想してはいけないということはまったくありませんし、わたしたちは皆そうしたことを頻繁に行っています。しかs、それは人前にさらけ出すべきものではありません。

  • 耳が痛い指摘。

  • エーコ自身はかなり綿密に、細部まで架空の世界を作り上げてから小説を書くらしい。『薔薇の名前』は研究の専門と被っていたので早く書けたが、それ以降は10年弱かけて一作を仕上げている。

  • フィクションの人物と可能世界。

  • 現実にある物体(PhEO)は現実によって定義されるのに対し、フィクションは言明だけで定義されるからその事実は普遍的に不変。確かに〜。面白いけど、だからなんだといわれると?

  • 特に全体構造を保つ、一定の関係を保った属性の集まりで定義できる。どの属性が必要かはその人物による。「赤ずきんちゃん」ならあかずきんと幼い女の子という属性をあげている(赤い帽子をかぶった二十歳のセクシーな女性は「赤ずきんちゃん」ではない)。

  • フィクションの世界がその作者がいる世界を認識できない不完全な世界観を持っているのと同様、われわれの世界観も不完全かもしれない。だからこそフィクションの登場人物は人間の真の性質を示す最たる例になりうる。何を言っているのかわからない。

  • 感情移入について。

「小説の読者によって常に結ばれる暗黙の協定によって、読者はフィクションの可能世界を真剣に捉えるふりをする」

  • この協定によって感情移入が起こる。

  • リスト。

リスト、それは書くことと読むことの快楽。

  • リストは無限の細部について語る方法。文学のイプシロンデルタ論法。その他諸々の途方もなさをしめす。
  • 無限について、数学でも {1, 2, 3, …} と書いて自然数全体の集合を表したりする。ここでも「…」の部分、その他諸々が無限に広がる集合を表している。もちろん自然数全体の集合を自然数全体の集合と指示することもできるが、列挙と本質による指示は(文学的には)異なるらしい。

  • 記号論とか可能世界論とかを使って説明するのは哲学者っぽい。哲学者だから当たり前か。

ダイガクのセンセーが書いた本としては前提知識が(あまり)いらないので易しい。嘘だ。ちょっと難しかった。難しかったので誤読があるかもしれない。早くモデル読者になりたい。