あかいねじ

感想を書く。SF、ミステリ、それ以外について。

柴田元幸/高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』感想

「固体」としての小説があり、「気体」としての小説があり、「液体」としての小説がある。だが、それらは、もちろん、バラバラに存在しているのではあるまい。もしかしたら、それらは、「ひとつのより大きい」なにかの破片なのかもしれない。

読んだ。

この間、高橋源一郎銀河鉄道の彼方へ』を読んで圧倒されたので、いったいこの人はどうやってあんな本を書けるのか、ということを知るためにいつもなら一週間に一度しか行かない図書館(往復一時間)に二日続けて通った。

分かったのか。すこしは分かったような気がする。では説明せよと言われたら、分かりません、と答える。それくらいの理解度だ。どうにも現代詞とかハイモダニズムに起源を持つらしい。それで、小説のコードというものがあって、それがどうにも気になるからああいう書き方になるらしい。ああいう書き方とは前の記事に書いたような書き方だ。記事は1週間分ずつ予約投稿して(これは嘘だ。これを書いている時点で下書きには3つしか記事が並んでいない)手直ししているので、この本を読んで分かったことを、分かったようなふりして前の記事でも書いている。

そして、柴田元幸。こちらも知らない名前ではない。翻訳小説というものに興味を持った最初の本がまさに柴田元幸訳・ポールー・オースター『写字室の旅』だったのだから、むしろ馴染み深い。一方的な馴染みだけど。

中身は結構知らないことばかりが書いてあって、興味深く読めた。アメリカ文学は歴史がないこと(あるいは移民として始まったこと)から必然的に自意識の文学が発達していて、日本文学とはそこが違うとか。へー。でも文学部とか行ってる人にはこんなことは当たり前かもしれない。

「書き方」パートで一番興味が惹かれたのは「コード」の話。

本当のことを言うのが文学だというのは、実はまったくの嘘なんですね。でも、よく考えてみたら、これは文学に限ったことではなくて、この世界の構造は基本的に「本当のことは言わない」ということなのかもしれない。つまり「コード」というのは、そういうことですよね。

この世界は全部嘘らしい。少なくともネットの世界には嘘が溢れていると言うのは知っている。文学をプロレスに喩えたりしている。ショウだという。なるほど。しかしショウなのだから本当のことを言おうと本気になってしまうとみんな怪我してしまうらしい。

「訳し方」のパートでは夏目漱石とか森鴎外とか村上春樹が出てくる。ウェイ・オブ・ライフとして翻訳をしたという。習慣にしてコツコツ地味にやっていたというのは作家のラディカルなイメージとは食い違うが、特に前者二人は規則正しい生活だったからこそ(対応する日本語がないと言う困難を抱えている)初期の翻訳を乗り越えられたという。なかなか勇気づけられる言葉だ。このブログも習慣にしたいが……(私の計算によると一日一冊分の感想をブログにのせるには、一日一冊以上の速度で本を読み、一日一つ以上の感想を書く必要がある)。オードリー・タンによれば行動は二ヶ月で習慣になるというので、とりあえず六月までは頑張りたいところ。

最後に書いているとある日突然体で書き方がわかると言うことが書いてある。

どうしてもあるシステムを作る必要がある。いくら意識しても、無意識から意識は取り出せない。

柴田さんは考えないようにするために音楽をかけていると言う。真似してみても悪くない。

ブコウスキーの『パルプ』が繰り返し称賛されているので読んでみたい。ついでに言えば二人が選んだマストリード20冊みたいなの表も付いていたので写真を撮った。ここらへんもいつか読んでみよう。