フェルナンド・ペソア『アナーキストの銀行家』感想
「だった、じゃない。かつてもそうだし、今もそうだ。この点、僕はかわらない。現に僕は、アナーキストだ」
読んだ。
アナーキストの銀行家。アナーキスト。銀行家。どちらも人の社会的身分を表す言葉だが、そこから受ける印象は真反対。北極と南極のような一つの軸の対極にあるのではない。多次元空間で、どの座標も全く重なり合うことのない二つの概念といったところ。このタイトルに惹きつけられずにはいられない。
ペソアの名前は聞いたことがある程度。断片、断章の人というイメージがある。あとは作品を書く、あるいは発表するときに幾つもの別名を使ったという話も有名か。この本はちゃんとした(ちゃんとした?)短編集になっている。普通の短編集。「独創的な晩餐会」、「アナーキストの銀行家」は短編の長さで、他はショートショートくらいの短さなのはそういう短距離への志向が現れているのかも?
しかしこうしたペソアのあり方は、複数のハンドルネームやアバターを使いこなして別人となり、電脳空間でつぶやき、日々ブログを更新してはデジタルなトランクにしまいこんでいる現代人には、とても近しい存在かもしれない。曲がり角の向こうからたびたび戻ってくるペソアの現代性とは、そんなところにもあるのだろう。
というわけで私のデジタルなトランクであるところのこのブログにも適当に感想を書き散らしていく。
独創的な晩餐
プロージット氏と彼が開いた晩餐会の話。 プロージットは俗物であるが決して腹を立てない人物だった。彼は自分が主催する美食会で、次の会では誰も思いつかない美食会を行うという。理由は青年たちとの言い争いで自分の食が貶されたかららしい。その場では腹を立てなかったプロージット氏はしかし、この独創的な晩餐会を行うことで一種の仕返しを行うのだと。
「ええ、あなた方には、物質的な面で最大限に貢献していただく」
途中でオチはこれなんじゃないかな、と思っているとやはりそうだった。人肉食は衝撃的だが、光の当たったテーブルと闇の対比、嵐と凪の対比からすれば、好人物であったプロージット氏の狂気こそが主眼。
嵐のさなか、人は合間の深い静けさを忘れてしまう。
忘却の街道
闇の中を行軍する軍隊の話。 あらゆる感覚が鈍麻していく行軍の中で自分と自分以外の境目は曖昧に消失していく。
たいしたポルトガル人
落語?これ落語じゃないか?
夫たち
夫を殺した女の陳情申し立て。自由のない生活に対する叫び。
手紙
病気で誰からも厄介者扱いされる女性が書いた手紙。 何者でもないこと、何の役にも立たないことに関する嘆き。
狩
囚人を追い立てる。それだけの話。
それは、獲物を追う野放図な欲、獲物を狩るあくなき愛にほかならなかった……。
アナーキストの銀行家
アナーキストの銀行家の話。 銀行家とは銀行員のことではない。ここで登場する銀行家は、冒頭で紹介されるように、資本を有する大実業家だ。しかし彼は、いや、彼こそが理論と実践を兼ね備えたアナーキストであると自称する。
この僕は、理論と実践において、アナーキストだ。あいつらはアナーキストでばかだが、僕はアナーキストでばかじゃない。つまりだ、君、僕こそほんとうのアナーキストだ。
当然話し相手である主人公は驚き、説明を求める。そして彼は説明する。
では、そのアナーキストとはなにか?生まれつきわれわれが社会的に不公平であるという不正に対し反抗する人間——要はそれだ。
彼は労働者階級の出で、当然彼自身も生きるために働かなければならなかった。彼は齢二十にしてアナーキズムに目覚めた。
なぜアナーキズム体制は実現不可能なのか。
既存のアナーキズムの欠陥——無政府主義を目指すその行動自体が新たな専制政治を生み出す——その実現不可能性を滔々と独り議論した後、唯一擁護できるのは既にある社会構造、ブルジョワ社会だと結論づける。では彼はブルジョワ社会だけが擁護しうるからブルジョワたる銀行家になったのか。彼は否、と答える。
ここなんだよ、君、僕が頭をつかったのは。未来のためにはたらく、そりゃ結構。みんなが自由を手にいれるためにはたらく、そりゃ正しい。では、この僕は?
アナーキズム、自由を求める思想を個人に適用し、利己主義を手に入れた「アナーキストの銀行家」は果たして、その結果を正当化するあらゆる理屈も手に入れたのであった。めでたしめでたし。
とはならない。
真のアナーキズムにおいては、ひとりひとりが、自分の力で、自由を創造し、社会的虚構とたたかわねばならないということなのだ。
社会的虚構、その総体が悪なのだ、社会的虚構を代表する個々人は、それを代表しているということをのぞけば、悪くないのだ。
決して実現しえない理想に対する痛烈な風刺となっているこの短編。内容は長広舌の演説みたいになっているが全く飽きるところがなかった(個人の感想です)。
僕の主張は、唯一のアナーキズムの方法として発見した、その方法によって、ひとりひとりが、めいめい自分を自由にしなければならない、ということなのだ。
一つ言えば、自然にこだわる描写が気になる。虚構と自然を恣意的に分類し、自然にある不平等を許すのはやはりこの銀行家が自分に才能があり、その既得権益を守りたいからではないか。そういうところも含めてペソアの皮肉が刺さる。