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感想を書く。SF、ミステリ、それ以外について。

リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』感想

私は自分がこの話からどんな物語を作ることになるか知っている。一つの言葉から次の言葉へと、徐々に自由になる物語だ。無意味な細部と真空から自らを作り上げていくタイプの物語。偶然みたいな選択が存在しない物語。

読んだ。いきなり『薔薇の名前』への引喩がある。パワーズの作品は読者に相応の知識を要求してくるらしい。いやだなあ。でもカミュやハクスリーといった物語の核心に近い部分は明示的な説明があるので普通に読めると思う。私が何か見落としていなければ。

感想

本作の主人公、ストーンは以前は作家だったが今は自己啓発系三文雑誌の校正で口を糊する生活を送っている。人生に失敗した男。そんな彼の元に芸術大学の文芸講義の非常勤講師の仕事口が舞い込む。彼はタッサ・アムズワールという才能あふれるアルジェリア人の学生に出会う。

主人公が作家だったとき、彼は「創作的ノンフィクション」と呼ぶ作品を書いていた。自分が経験したことを脚色して作品にする。要するに私小説だ。しかしそのモデルになった人々が不幸になっていることを知ったストーンは筆を折ってしまう。自分がかいたのはグロテスクな暴露話でしかないと思ってしまう。


創作的ノンフィクション。自家撞着的だ。創作があるならノンフィクションではないし、嘘が無いのなら創作ではない。……本当に?


舞台設定はかなり現代的だ。インターネットがあり、「信仰さえもが、規模の経済を享受する」。主人公はうつ病で、その兄もそうだ。兄はそれが血筋だという。作中の遺伝子学はゲノム学と名前を変え、人が主観的に感じる幸せを決める「幸福の遺伝子」の存在を突き止めた。SSRIなりSNRIなりが身近になったこの時代ではいかにも現実的な設定に思える。

タッサはこの「幸福の遺伝子」の持ち主で、常に明るく、並外れたレジリエンスがあり、誰とも分け隔てなく仲良くなる。異常なまでに寛容だ(generous)。この寛容さは繰り返し描写される。原題は"Generosity: An Enhancement"であり、寛容さや遺伝子(gene)ともかかった題名になっている。117ページにはこの言葉の系譜がずらずらと書き並べられている。

タッサの気前の良さを心配したストーンはカウンセラーのキャンダスに「アルジェリア難民の彼女が幸福すぎるように見える」という相談をする。かなり不自然だが、この行動は彼自身の問題、常に鬱気味な気分であることの裏返しに見える。実際彼女が不安に陥ったときの彼は安堵すら覚えている。この心理については別の登場人物についても現れている。

彼の望みは何か。誰でも望むものを彼は望む。決して自分が手に入れられないもの、努力を要しない輝き、隣に座るだけで気分が浮き立つものを望む。容赦のない"自分"性からの解放を望む。1分間だけでも、彼女の輝きを少し。絶滅から物語を編む彼女の技を。彼は彼女の炎を食べたいと思う。

あるいは、その芯をつまみたいと思う。炎を消して無にしたい。他の人と同じようにおびえさせたい、と。

作中で人の幸福は生物学、遺伝、人類史、行動心理学の理論を持ち出して徹底的に説明される。「幸福を求める人間は幸福になれない」という言葉をどこかで見た覚えがあるが、幸福についての雑誌を読み漁るストーンはまさにその典型と言える人物像だろう。そして、ほとんどの人々がそうなのだ。群衆はそれゆえに幸福を、幸福の遺伝子を追い求める。

幸福についての議論は面白い。現代科学は自己決定の欺瞞を暴き、その支配領域をどんどん縮小させている。幸福という概念についても追求の手を緩めない。遺伝子。セロトニン自然淘汰。しかしなぜ人類のほとんどは幸福ではないのか? 幸福を人為的にコーディングすることは倫理的に問題なのか? 一方でこの議論に目新しい話はない。幸福は主眼におかれていないのだ。幸福の議論の下に流れているのは「ひとはなぜ書くのか?」という問いである。


現実は創作よりも面白い。脚色された現実は特に。その時、創作の役割はどこにあるのか。


「ぼくはこんな拙い作文を聞かされるみんなに申し訳ないです。毎秒新たに二十五のブログが書き込まれていて、その全てが僕の日記よりも面白いのに」

ストーンがかつて筆を折ったのも、タッサの話がマスメディアを通じて拡散するのも根底にあるものは同じだ。情報はマスメディアでもマイクロメディアでも拡散し、氾濫している。創作はその役目を科学に奪われつつある。本を読むよりツイッターやインスタグラムをする時間の方が長い、そんな時代でもまだ創作にこだわるのはなぜなのか。

この問いは中盤、ゲノム研究者のトマスとノーベル賞作家の討論会の場面で頂点に達する。小説家は、文学は、幸福の遺伝子に、科学に敗北する。フィクションは現実に対抗できないという白旗を挙げる。その後も創作は念入りに叩き潰される。キャンダスの子供のデイヴはゲームに熱中している。ゲームは狩猟採集民族の記憶から抜け出せない人間の神経系にあまりにも適合する。ソーシャルゲームは特に。あなたも常にそういった刺激に晒されているはずだ。

「人類の歴史の大部分において、人生は何らかの意味を持つには短過ぎ、希望がなさすぎたために、私たちはそれを補うものとして物語を必要としました。しかし、私たちがその脳に値するだけの長さと満足度を備えた、苦痛の少ない人生を手に入れようとしている今、芸術はそろそろ、われわれを高貴なる禁欲主義を超えたところへ導くべきではないでしょうか」

ここで幸福と文学のテーマが接続する。次のような一文にも遺伝子操作と創作の類似性が示唆されている。

この場所はどこか別の、第二の都市だ。このシカゴは試験管内で生まれたシカゴの娘で、柔軟性を持たせるために遺伝子操作されている。そしてここに書かれた言葉はジャーナリズムではない。ただの旅行記だ。

タッサの幸福が遺伝子によるものだと科学的に証明されれば、それは逆にストーンの鬱も遺伝子によるものであることの証明になる。それは治療可能な病になる。文学の作用はまったく無意味か、せいぜい落ち込む人への対症療法程度であって、現実と科学に取って代わられる存在にすぎない。幸福が手に入るならば文学は無用になるのだ。物語の必然として「幸福の遺伝子」の存在は証明される。

物語には必然がある。一方現実は脈絡がない。

全てが全てを引き起こしている。

あるいはフィクションの方から言えば、

プロットとは不合理なものだ。すっきりした因果の鎖に従って次々に事件が起こり、徐々に緊張が高まって、必然的なクライマックスに至り、意味が浮かびあがる。誰がそんなものにだまされるというのか。

となる。語り手の「私」は小説について次のように言う。

百万プラスアルファの小説の中に恋愛を盛り込んだものがどれだけあるか、私は計算しようとする。明るい結末、暗い結末、健康な恋愛、病んだ恋愛。私には計算ができないきっとほとんどの小説に恋愛が絡んでいるだろう。 性淘汰——優生学の最も確実かつ最も尊い形態——がわれわれを、現在のような虚構愛好者に仕立て上げた。私の一部は時に、自身の幽閉以外の物語を自由に読める種に属したいと切に思う。の頃に私は、小説は常にストックホルム症候群のようなもの——われわれを拉致した衝動に宛てたラブレター——だと知っている。

虚構、フィクション、小説は一筋の光明になる。理由のない悲劇と暴力と折り合いをつける説明を与えてくれる。そこに込められた寓意を読者に読み取らせる。それはわたしたちの遺伝子が因果関係というものを重視しすぎるからこそ可能な行いなのかもしれない。しかしそれはただの逃避、鎮痛剤、待避スペースであって、この物語で描かれる物語の破局の必然性を際立たせる。物語は大衆と科学の手によってその息を止められてしまう。

語り手について

語り手の「私」とは誰なのか。あとがきでは「推測は難しくない」とされている。白状すると、最後まで読んでもわからなかった。この物語を書いている人間だということは分かる(当たり前だ)。では作者たるパワーズなのか、と思ったがそうでもないらしい。「私」が作中現実と同じレイヤーにあることが度々示唆されるからだ。

では「私」は誰なのか。最初のページに戻るとあからさまな描写があった。

私はその現場から何年も離れ、別の国にいるし、

これが最後のテッサへのインタビューのシーンのことだとすれば、「私」の正体は一人しかいない。これで合ってるかな?

この推測が正しい場合、本作は神の視点から書かれた作品ではない(第五章がNo More than Godとある通り)。創作者の視点から書かれた物語である。彼女には登場人物のことが全て分かるわけではない。「私」は(作中で)実際に起こった出来事を元にこの作品を書いていて、わからないことがあれば推測するか、それができなければ「創作」するしかない。だからこの作品には「創作であれば許されない」ような偶然(それは現実がもつ一つの性質だ)であったり、物語を書くこと自体へのためらいがある。この作品自体が創作的ノンフィクションであり、それが書かれなければならなかった理由は幸福という主題に対する答えとして提示される。

「……皆に全てを伝えて。私の遺伝子には、この場所で通用するような治癒の力はなかったと」

ここで創作者たる「私」は自分がついた嘘の存在をあからさまにする。テッサの生存について。ストーンとキャンダスが幸せな結婚をしたかについて。「私」自身の行く末についてさえも。それを言えば、作品のほとんどの部分が創作であり、悲惨な現実の書き直しなのだ。

彼女は——私が考え出した友人は——私が思い描いたままの姿で、まだ生きている。もっと幸福な結末を求める集団的欲求に潰されることなく。書くことは常に書き直すことだ。

ここで終わってもいいのだが、語り手にまつわる謎はもう一段押し進めることができる。

「別の人を使ったら?」彼女は暗闇に劣らぬセクシーな声でささやく。「語り手を見つければいい」

これはキャンダスがストーンに行った言葉で、ストーンがシフを語り手に選んだ可能性は考えられる。この作品はストーンがシフを語り手兼書き手として書いた体で書かれた体でパワーズが書いたのだ。何言ってるんだ? この場合、その後のパラグラフが重要になる。

その本は再びこの世でくつろげない可能性を扱うだろう。自己実現をせいぜい珍妙なものに変える巨大な資本の動きを扱う本。集合的な知恵がついに私たちの望むものを手に入れるという破局を扱う本。

この本は破局について書いていると思う。人類が幸福に手をかけたとき、文学は破局を迎える。

この物語は創作の危うさを幸福という幻想に重ね合わせて描き出した文学的な作品であり、その答えは簡単には提示されない。最後に示された「なぜこの物語が書かれたのか?」という問いに対する私の読みも一面的なものに過ぎない。幾重にも折り重なったテーマが詩情豊かに語られる。マクロにはそのテーマと語りの響きに、ミクロには文体のポエジーに圧倒される本だった。

その他

  • 個人的なことを言えば「生まれている人は誰でも、生まれていない人より百万倍幸運、断然優位なのだから大いに満足すべきだ」という本筋とは全く関係ない文で驚いてしまった。幸福の遺伝子を持っている人はさすがに言うことが違いますね。
  • SFか海外文学のどっちに入れるか迷ってどっちにも入れた。日和見
  • 明らかに読解が足りなくて混乱した文章になっている。もう一回読むべきなのだが、書くことについて書いている小説は苦手なのだ。ウーン。
  • 追記:幸福の遺伝子は存在せず、タッサはそのように振る舞う(虚構)ことで幸福に見えていただけだった。人々が安易に幸福の遺伝子を求める態度は虚構の必要性の裏返しである。虚構(フィクション)が不可欠であるというテーマに接続すればこの物語がメタ的に語られるのもしっくりくる。安直な読みだがとりあえずそういう風にまとめておく。これだと単線的過ぎてナンカチガウ感じがするけど。
  • 円城塔による書評。これを読んでカミュへの言及が理解できた。ほえー。