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サミュエル・R・ディレイニー「エンパイア・スター」感想

単観、複観、多観。

読んだ。


シンプレックス:自分の価値観で全てを測る。単純で表層的な思考。

コンプレックス:一を聞いて十を知る。様々な立場から物事を斟酌して結論を出す思考。

マルチプレックス:〈全知の観察者〉の視点。一つの視点に縛られず、空間や時間を超越した複数の視点をもつ。未だ起こらないこと、既に起こったこと、過去と未来を見据えられる思考。


ディレイニーの最高傑作と名高い「エンパイア・スター」。シンプレックス、コンプレックス、マルチプレックスの観性が入り乱れるスペース・オペラ。主人公の少年ジョーはエンパイア・スターへのメッセンジャーの役目と多面体のジュエルを託される。ジョーは宇宙を巡り、ルルを所有する女性サン・セヴェリナ、言語的遍在型多観体のランプ、詩人のナイ・タイ・リーといった人物にであう。旅の中でジョーは単観から複観に、複観から多観へとその観性を深化させていき、自分が伝えるべきメッセージを知る。

寓意を含み、構造に趣向を凝らした小説。寓意の方については分かりやすい。ルルが奴隷なのは黒人の隠喩であり、ランプとそのもとの意識であるミュエルズ・アランライドはディレイニー自身の投影であることが訳者補記に書いてある(名前がアナグラムになっている)。物語は(語られない部分が大半ではあるが)ルルを解放する戦いについてのもので、「エンパイア・スター」で語られる部分はそのプロローグとエピローグでしかない。

「時の経過にともなって」〈ランプ〉がいった。「人は学ぶ。それこそは、唯一の希望だ」

この作品が評価されているのはむしろその構造の面が大きいように思う。物語を単線的に辿れば少年が成長して宇宙戦争における重要な役割を果たすまでが描かれていると読める。一方で作中の時間の流れは入り組んでおり、たとえば作中で現れる人物は(一場面を除いて)現れる度に若くなっている。時間を越えられる歪みの存在によって物語は複雑なパズルのようになっていて、語り手は全てを詳らかにするような語りをしない。物語の全容を知りたいならマルチプレックスな読み方をする必要がある。

——多観な読者であれば、それを自力で推測して補填できると判断したこと、そういった理由からだ。じっさい、この物語を通じて、わたしは何度もこのような措置をしてきている。

序盤から暗示されていた円環構造は最後に明示的に言及されるが、それは円環ではなく螺旋を描いていることが示唆される。この先の物語はもちろん語られないが、これまで語りの裏側にあった物語とは違い、根本的に開かれている。もしかしたらサン・セヴェリナはルルを所有せずに済むかもしれないし、ランプは死なないかもしれない。そもそもコメット・ジョーは旅に出ないかもしれない。彼らの物語はマルチプレックスに見ても届かないところにある。

いや、物語のこの部分は、前にも語っただろうか? どうもまだ、語っていない気がしてならない。 この広大な多観宇宙には、リースという名で呼ばれる衛星も、〈ブルックリン橋〉と呼ばれる場所も、いくらでも存在する。


読み終わった後に感嘆の声がでた。ほえー。最後まで読み終えた後、もう一度最初から読み返したくなる。読み返すと物語はまた違った一面を見せる。それはまた、「エンパイア・スター」の構造とも、ジュエルの多面体の形とも重なっていて、さらに感心してしまう。とても面白かった。