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感想を書く。SF、ミステリ、それ以外について。

グレッグ・イーガン『TAP』感想

TAPはもっとも強制的なVR以上に、ユーザーを没入させることができる。いっさいの媒介なしに、人をある情動状態にすることができるのだ。

読んだ。

グレッグイーガンの短編集。いつものとは違ってバリバリのSFといった風ではない。SFのサイエンス要素には分かりやすい題材が選ばれていたり、技術的、科学的には深掘りしないで話を進めている。SFではなくホラーを扱ったような短編もある。かなりSF寄りだが。

新・口笛テスト

  • ある曲あるいはフレーズがずっと頭の中で流れて離れない。別のことに集中しようとしてもフレーズが思考のリソースを占有してしまう。そんな経験をモチーフにした話。
    • クラシックがCMで汚染されるってアイデア、言われると確かにそうだなあと思う。普段音楽聞かない人が受動的に音楽に触れる機械って商業的なもの(CM、有線放送)以外は殆ど無さそう。音楽と資本主義はセットや。キャピタリズムはリズムを内包する(綴りが違うだろ?)。
    • 人間の情報処理系をハックするような仕組みの模索。現在実現されているのはコンプガチャとか。
      • 少し前、遺伝的アルゴリズムでエッチな絵を作ろう、という企画があった。モザイクから最初に現れたのはおっぱい(正確には二つ横に並んだ肌色(っていうとマズい?)の円盤)。それから体や顔(のように見える図形)が生成された。この変化の連続性は通常の感覚で説明できてしまう。人間の認知を使うヒューリスティックな方法だと超正常刺激の結果に繋がる見込みは低そう。
    • でもソシャゲとかはまあ超正常刺激なのかもしれない。
    • 分かりやすく面白かった。

視覚

  • 脳の損傷で現実が三人称視点になってしまう話。
    • 見ているものは実際のものとは異なっている。
      • この考え方の起源はかなり昔からあって、Wikipediaによると人の視覚に盲点があることは1660年には発表されている。哲学でもカントの認識論の「物自体」と「表象」の違いはこの題材と近いかもしれない。SFではお馴染みになったテーマ。ピーター・ワッツ『ブラインド・サイト』とかタイトルからそうだし。
      • あるいはゴリラテストとか?これは今命名したので調べても出てこないかもしれない。ゴリラに気づかないあれです。
      • 見ているもの、知覚されることは脳の処理を受けている。人はビット・バイ・ビットで認識するわけではなく、穴だらけの情報を補完して処理するのだ。
    • 掃除機で視点を体に戻そうとするのは幻肢痛の治療をモチーフにしたのかもしれない。
      • 鏡療法。
        • これも一種の認識ハックっぽい。
    • 三人称視点になることで却って冷静客観的に判断できるようになるというのも認識ハックっぽい。さっきからこれしか言ってないな。

ユージー

  • 宝くじを当てた平凡な夫婦が最強の子供を作ろうとする話。
    • 遺伝子編集技術をモチーフに優生思想を扱う。
      • どちらかと言えば反出生主義か。反出生主義の一つの主張として同意不在論があり、これは当事者の同意のない出生(つまり、全ての出生だ。同意するには同意する本人が存在しなければならないし、出生の定義から言って出生を行う前に存在することはできない)は非倫理的であるという主張である。
      • 作中では過去への干渉ができる、従って出生に同意するか選べるような子はみな出生を選ばないというオチが皮肉に描かれている。
      • ユージーンの主張は個人に適用された反出生主義の主張そのもの。
        • 出生の同意を描いた作品として芥川龍之介「河童」が挙げられることが多かったので読んでみたら結構サラッと書いてあったので拍子抜けした。それはそれとして面白かった。
        • 青空文庫で読める。
    • 宝くじは子供を産むことの暗喩だろうか。どのような子が生まれるかは事前には分からない(それこそ遺伝子改良でもしない限り)。
    • 金持ちと教育格差の話でもある。あるいは金がどう分配されるか。
    • タイトルはユージーン(Eugene)と遺伝子(gene) を掛けている?
      • 映画『ガタカ』にもユージーンって人が出てくるらしいね。

悪魔の移住

  • 自分を殺すよう呼びかける謎の声(?)の主の話。こいつ、直接脳内に……!
    • 動物倫理で私が真っ先に思い浮かべるのは畜産業だが、実際にそれが効力を発揮しているのはむしろ動物実験の方。
      • (動物実験には)差し迫った理由がないから妥当というのはそう。
    • 語りが過剰気味であんまり乗れなかった。

散骨

  • 夢か現か、殺人犯を追うジャーナリストの話。
    • 非SF作品。ホラー。
    • 報道がもたらす負の外部性ではむしろ自殺報道と自殺件数の関係の方が有名かもしれない。
    • ウェルテル効果

銀炎

  • 謎の疫病とスーパースプレッダーの話。
    • 反知性主義(?)の話。
    • 地獄への道は善意で塗装されているという話でもある。
    • 倫理的であるにはいくらかの理性が必要というのはその通り。人を鉄アレイで殴り続けると死ぬという事実を殆どの人類が理解しているのは奇跡に近いと思う。
    • コロナ禍の中で読むとなかなか感慨深い。

自警団

  • 町の怪物と子供の話。
    • 夢から実体化して法律を破る非行青少年を喰って回る怪物。契約の穴をついて自由になった怪物を大株主の子供が制裁する。
    • 最後の一言がよく分からなかった。

      「それにほかのだれも、お前が死ぬのを夢に見なかったんだろ?」

    • 誰もやらないから子供が自己犠牲をするしかなかったということか。

    • 子供が勇敢すぎる。かっこいい。

要塞

  • 人種差別の話。
    • 万物理論』の序盤に出てきた富豪と同じモチーフ。塩基対を取り替えて、同じソフトを別のハードで使う。
    • なにげにイーガンの好きなテーマ?何かを拠り所にして「こちら」と「あちら」に分断するあらゆる運動への批判。

森の奥

  • 森の奥で死ぬ男の話。
    • 進化の過程、自然淘汰の過程で生き残るものは何か。子供は自分のコピーではない。
    • 途中で語られるのは永劫回帰の思想に近い。ある物理的状態が再び実現することがあるなら、人間についても同じことが言えるのではないか。
      • 統計学的に正しいかは微妙。確率空間が広すぎて測度が0ということは十分にあり得る。そもそもこの世界は過渡的で、再帰的な構造には自分は存在しないかもしれない。
    • 二つの立場から自己と生死について議論する2人。一方は死に、他方はその思想を引き継いで自分の思想を捨てた。自己はどこに宿るのか。
    • 思想が受け継がれるミームなら、自分を撃ったカーターの思想もまた、オリジナルではないかもしれない。

      「きょう、だれが死んだんだ?答えろよ。きょう、ほんとうに死んだのは、だれなんだ?」

    • インプラントによる思想の書き換えは『宇宙消失』でも使われている。

TAP

  • 外付けされた脳の話。
    • TAPをつけた詩人が心不全で死んだ。その真相を探るSFミステリ。
    • テクノロジーの進歩を受け入れる人々とそれに抗う保守的な人々。
      • 一方の極はレメディオスやジェインのようにTAPを受け入れる側、他方にはダニエルといった既得権と伝統のためにそれを管理しようとする側。
        • ジェインとダニエルの対立には理解と信仰の対立が描かれているが、ジェインがダニエルの目を盗んでTAPを渡せたのは、技術を押さえつけることはできないということなのかもしれない。
          • 個人的には信仰は人類に有益だと思う。常に逃げ道があるというのは安心できる要素じゃないですか?
        • 主人公は新たな言語を操る能力と自分が馴染んだ従来の言葉の間で決断を迫られることになる。
          • それは広い意味では科学技術(ここ数世紀で発展した)と人間(ここ数万世紀を生きてきた)の対立なのかもしれない。