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感想を書く。SF、ミステリ、それ以外について。

リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』感想

いまや彼らは遺伝子という名で呼ばれており、私たちは彼らの生存機械なのである。

読んだ。

著者が広く流布しているある種の誤解について説明している。今時こんな誤解をしている人は少ないと思うが、タイトルの『利己的』というのは個体の性質ではない。全然ない。むしろそれは、個体のレベルでは一般に利他的とよばれるような協調行動に現れる(ことがある)遺伝子の性質のことだ。具体的には、遺伝子プールで数を増やすという目的を仮定すれば、遺伝子の振る舞いを目的論的に理解できるので、そのように呼びますという約束の下で使われているターミノロジーである。そのため、本書ではそのタイトルとは裏腹にそのような利他主義について論じている部分が書面の多くを占める。

かなり有名な本である。「ミーム」や「遺伝子の乗り物」といった言葉は誰でも一度は聞いたことがあるのではないか。それだけの影響力を持つ程度には面白かった。

自然淘汰の非情さをまざまざと思い知らせてくれる。そして、そのことが多数の(無意識的か意図的、あるいはその両方に基づく)誤解と批判を呼んだ。このことについて、著者ははじめに次のように述べている。

もし何かが正しければ、どれほどの希望的観測を持ってしても、それをなかったことにはできない。

そして、「真実そのものではなく、それを報せるものを殺してしまう」傾向についても言及している。このことについて、私はケビン・カーターの『ハゲタカと少女』を連想した。もちろん、ライプニッツの不可識別者同一原理を考えればここで起こったことが極めて合理的な解決であることは論を俟たない。

著者も反省している扇情的なタイトルとは裏腹に、この本の主な主張は以下の3つだ。

  • 自然淘汰は遺伝子のレベルで起こり、種淘汰、群淘汰は誤りである。
  • 人間を含む動物の行動は全て、遺伝子の利己性で説明できる。特に、(個体のレベルでは)一見利他的に見える行動でも、遺伝子の利己性で説明できる。
  • 個体は遺伝子の乗り物(ヴィークル)である。

よく言えばこの本は多くの具体的事例を扱っており、悪く言えば議論が飛び回って混沌としているので、見つけようと思えばさらに多くの示唆が見られる。しかし、この本では事実と学説を述べるだけにとどめており、一貫して倫理的、規範的な主張はしていない。例えば第1章では次のように書かれている。

そこでまず私は、この本が何でないかを主張しておきたい。わたしは進化に基づいた道徳を主張するつもりではない。単に物事がどう進化してきたかを述べるだけだ。私たち人間が、道徳的にはいかに振る舞うべきかを述べようとしているわけではない。私がこれを強調するのは、どうあるべきかという主張と、どうであるという言明とを区別できない人々、しかも非常に多くのこうした人々の誤解を受けるおそれがあるからだ。

もし本書で著者が述べた倫理規範的主張があるとすれば、それは一つだけで、

私たちは寛大さと利他主義教えることを試みようではないか。私たち自身の利己的な遺伝子が何をしようとしているかを理解しようではないか。そるすれば、少なくとも私たちは、遺伝子の意図を覆すチャンスを、すなわち他の種が決して望んだことのないものをつかめるかもしれないのだから。

というものである(これは第8章の最後と第11章の最後でも同様のことを述べている)。倫理的であるためには理性と教育が必要なのだ。

先ほど書いた「多くの具体的事例」について言えば、進化の起源、自己複製子としてのDNA、血縁内外での利他的・利己的行為、性差、進化的に安定な戦略、ゲーム理論、遺伝子以外の自己複製子(ミーム)、表現型の延長性について鳥、アリ、ミツバチ、ライオン、ハイエナ、魚、人間、その他あらゆる動植物さらにはウイルスまでを例にとって遺伝子淘汰理論で説明している。この具体例が面白い。個人的に一番面白かったのは卵子精子の非対称性で、雑に言えば配偶子のサイズに差が現れる(これは配偶子に投入する資源量の差に相当する)と、その差を利用するような二極化が進むということだ(実際には概ね小さい方が大きい方を搾取するような仕組みになる)。自発的対称性の破れっぽいと思った。他に面白いと思ったのは

  • 陸上と海中での雌雄の子育ての違いに関する仮説
  • 自己複製子の3つの特徴;寿命、多産、正確さ。
  • ミツバチ、アリの社会性
  • コミュニケーションの悪用
  • 閉経と孫への投資の効用
  • トリヴァースの「過酷な束縛」
  • 女王アリとワーカーの雌雄比に関する利害対立
  • ゲーム理論で搾取者が少数安定すること
  • ミームが競争する資源(脳と時間)

である。そんなことがなんに役に立つのだ、という向きもあるかもしれない。でも最後のそれはどうだろうか。あなたがミシガン州のある企業でマーケティング企画を担当していたとしよう。この本を読むとマーケティングにふさわしい性質は自己複製子のそれと同じだということに気付くだろう。つまりミームだ。では自己複製する動機を与えるような戦略はあるだろうか。例えば、単純に複製に対して報酬;金銭を与えるというのはどうだろう?これは指数関数的に広がるがコストも同様だ。報酬を与えるために指数関数的に売り上げを伸ばさなければならない。しかしこれは解決済みだ。マーケティングと完全に連動させれば売り上げは指数関数的に増える。その一部を報酬として与えれば良い。このように考えた企業はいま世界の100以上の国と地域でビジネスを展開 し、世界での売上高は88億ドルらしい。そして渋谷にデカくて綺麗なビルを建てており、それは日本アムウェイ本社ビルと呼ばれている。"The selfish gene"の初版が1976年、アムウェイの創立が1959年なので、この話はもちろん創作だ。しかし、日本で「無限連鎖講の防止に関する法律」が施行されたのは1979年だ。ここには3年間のビジネスチャンスがあったのかもしれない。

本書を読む上で気をつけるべき点が2つあった。そのあとで、私見を述べる。

まず、この本が40年近く前に書かれたということだ。コンピューターに関わるような記述にはそのことが顕著に現れている。チェスでコンピューターに勝つことはできないし、計算資源も同じ単位で比べればかつてより指数関数的に安くなっている。記述が古くなっているという点には注意して読まれたい。

次に、この本の著者が話上手なことだ。ちょっとしたブラックなユーモア、わかりやすい比喩、くだけた文体によってこの本の面白さは増しているが、伝達の正確さ(これは自己複製子の要素の一つだ)はどうだろう。主要な学説、著者の仮説、憶測、理論から導かれる予言、モデルによる説明。これらがあまり整理されないで書かれるので適当に読むとなにがなんだか分からなくなる。この誤解が起こりやすい最たるもの「利己的な遺伝子」で、遺伝子にも自然淘汰にも目的はない(これは先ほどの引用と同じで「である」と「すべき」の違いだ)のだから、「利己的」、「すべき」という表現は正しくない。正しくないが、「利己的」を厳密に表現するとどうなるか。

もし一つの遺伝子の複製の集合が遺伝子プール全体のなかでより高い割合を形成するようになれば、その遺伝子は自然淘汰において選択される。

この性質は目的を仮定すれば「利己的」の3文字で語ることができる。著者は門外漢を愚か者とはみなさなかったと書いているので、自分の頭で整理して読まなければならない。

この下は私見

自然淘汰は遺伝子のレベルで起こり、種淘汰、群淘汰は誤りであるという主張について、あえて意見を述べる(私は生物学、ましてや動物学を学んだ経験がないので間違ったことを言っていると思う)と、そのような単位はないか、無意味だと思う。例えば集団作用の法則が成り立つことは事実だ。それが統計力学とグランドカノニカル分布から導出できるものであるということは重要な知見ではあるが、法則の正しさや重要さを損なうものではない。ある意味では熱力学は統計力学の下位互換ではないし、統計力学は多体系の量子力学の単なる近似ではない。運動方程式だって有効だ。それぞれの階層にそれぞれの法則があり、それが結びついているという解釈が私にはしっくりとくる。同じように、遺伝子の淘汰がその上の階層で現れることは、上の階層に淘汰があるという事実を損なわない。もちろん、量子力学熱力学第二法則を導出できるとかいわれるとちょっと自信がなくなるけど…。

全体的にはかなり面白かった。注意して読むべきではあるが、40周年記念版がでるだけの事はあると思う。