ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー 下』感想
そしてまずまちがいなくあなたは、勝つことを好む以上に負けることを嫌う。
上巻に引き続いて人間はなぜ、何を間違うのかについて。ダニエル自身の経験が語られる。このあたりは興味深い話が多かった。たとえばスキル習得の条件は
- 十分に予見可能な規則性を備えた環境であること。
- 長期間にわたる訓練を通じてそうした規則性を学ぶ機会があること。
とされている。これは分かりやすく、かつ、有用な指標だと思う。適切なフィードバックは成長に不可欠な要素だというのは心に刻んでおきたい。
もうひとつは「計画の錯誤」で、ダニエルが教科書作りのプロジェクトに失敗した例が載っている。彼はベストケース・シナリオを想定してしまうことをこう呼んだ。これはそのまま東京オリンピックにも当てはまるだろう。コロナ騒動でほぼ忘れ去られているが、ロゴ、会場、海、選手村、あらゆる細部であらゆる問題がおこり、あらゆる予算が増額された。そしてコロナ。東京都も国も、ついでに私もこの内のどれか一つでも起こる問題だとは想定しなかった。大きな行事につきものの不確実性を無視していた。これはまさに「計画の錯誤」というものではないだろうか。全く慰めにはならないが、本書には似たような例としてスコットランドの国会議事堂建設費用が4倍近くに膨らんだ事例が載っている。また、この誤謬への対策は外部情報を収集、利用することらしい。
楽観主義が資本主義の原動力であると言う話も面白かった。事業主やCEOは自信過剰がち。マーティン・セリグマンによれば楽観主義はある程度まで「学習」できるらしい。マジ?楽観過ぎの欠点を補うために著者は死亡前死因分析を勧めている。
下巻の話、というか4章以降の話ではシステム1やシステム2といったものから離れる。プロスペクト理論や二つの自己といった概念を導入し、私たちは何をいいと感じ、何を悪いと感じるのか、あるいは幸福とは何かといったことを焦点にする。
第四章は
が扱われている。
プロスペクト理論
まず、富の効用逓減で説明できない損失に対するリスク選好性から、参照点を導入する。つまり、効用は状態ではなく変化で決まるのだ。
プロスペクト理論の効用曲線は参照点を原点として下が長いS字カーブを描く。
- 参照点の存在
- 感応度逓減性
- 損失回避性
が特徴。
- 利得も損失もあり得るギャンブルでは損失回避になり、極端にリスク回避的な選択が行われる。
- 確実な損失と不確実だがより大きな損失というように、どちらに転んでも悪い目の出るギャンブルでは、感応度の逓減によりリスク追及的になる。
- これ、いつリスク選好が変わるかいまいち分かってなかった(馬鹿だから)ので、なるほど確かに、となった。
損失回避性は現状維持願望としても現れる。著者はこれに生物学的(進化心理学的?)なストーリーをつけている。生存、繁殖にはチャンスを掴む能力より危機を回避する能力の方が必要だし、現状維持は生存している状態を維持できるという点で良い戦略だ。という物語は私にはかなり納得できる説明に思える。正しいかはともかくとして。
プロスペクト理論の帰結として、
- ベルヌーイの効用の誤り
- 無差別曲線の誤り(参照点の無視)
が導かれる。この二つは標準的な経済学の教科書でも扱われる概念で、合理的な経済人と実際の人間の違いが現れている例になっている。心理学的なアプローチと経済学的なアプローチの違いか。でも今は行動経済学とかもあるか。
他には
- 狭いフレーミングの誤り(困難は分割せよの逆で、分割して考えると総合的に考えるより悪い結果になる)
- この結果として、一回きりの割りのいいギャンブルは受け入れたほうがいいというのは面白かった。
- メンタル・アカウンティング(気質効果)
- デフォルトへの執着
- 並列評価における選好逆転現象(裁判では単独評価が採られている理由は?)
- フレーミングによる思考の誘導
二つの自己
プロスペクト理論は普通に受け入れられているが、こっから先はちょっと怪しい領域に入る。でも納得はできる。
ダニエル・カーネマンによると、幸福、あるいは苦痛を感じる自己として、「経験する自己」と「記憶される自己」の二種類があるらしい。経験効用はそのときに感じる効用、記憶効用は後からその時に感じていたと考えられる効用。記憶効用と経験効用は次の二点で異なる。
- ピーク・エンドの法則
- 持続時間の無視
その他
- 貧困が不幸を増幅させるという結果は面白いと思った。
- フレーミングによる思考の誘導とリバタリアン・パターナリズムについて。結構微妙な問題だと思うが、その微妙さを感じるシステムがまた怠け者なのだからたまらない。よい意思決定の手助けというが、何をもってよいとするかを、誰が決めるのだろうか。フレーミングが決めるのか。
- 最後にもう一回。
「システム1が〇〇をした」という表現は「〇〇が自動的に起きた」という意味であり、「システム2が××をした」という表現は、「興奮度が高まり、瞳孔が開き、注意力が集中して××が行われた」という意味である。〔…〕システムがどこかに存在するという誤解は切に避けていただきたいと思っている。