あかいねじ

感想を書く。SF、ミステリ、それ以外について。

G・ガルシア・マルケス『予告された殺人の記録』感想

自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。

読んだ。

G・ガルシア・マルケスノーベル文学賞を受賞したこともある南米作家。『百年の孤独』とかいう作品が有名らしい。私もどこかで聞いたことがある。タイトルが気になっていたので、アガサ・クリスティの『予告殺人』と一緒に借りてきた。もちろんこの本はミステリ小説ではないし、タイトルが偶然似ている以外は全く関係がない。

感想

この小説は「わたし」によって、過去の起こったサンディエゴ・ナザールの予告された殺人について、回顧録のような形式で語られる。一方で「わたし」が知り得ないような細部まで語られていて、事件との距離、実際に起こったこととその回想の区別が曖昧で幻想的になっている。

サンティアゴ・ナサールにも、別に予感はなかった。彼はほとんど眠れず、服は着たままだった。目が覚めると、頭痛がし、口の中は銅の鐙を突っ込まれたみたいにこわばり、苦い味がした。彼はそれを、夜中過ぎまで続いた結婚披露宴のどんちゃん騒ぎの当然の報いだと思った。

全体で5つの部分に分かれている。

第一部ではサンティアゴ・ナサールの殺人当日の行動に沿って、町の住民たちによる回想が語られる。実際に殺人を実行した双子も20ページくらいで出てくる。第二部は新郎、バヤルド・サン・ロマンと新婦、アンヘラ・ピカリオについて。第三部は双子について。第四部は事件の後の人々について。特にこの部だけはアンヘラ・ピカリオとバヤルド・サン・ロマンの再会で終わっており、サンディアゴの殺人に触れていない。第五部ではこれまでほのめかされるだけだった殺人それ自体が描写される。

第四部を除いてどれもサンディアゴ・ナサールの殺人かそれを暗示させる分で終わっているのでその分第四部の異質さが引き立っている。殺人の周囲を描く四部までの構成は『桐島、部活辞めるってよ』に近いものを感じた。

主な筋書きはわかりやすい。こうだ。様々な偶然が重なり、サンティアゴ・ナサールは自分が殺害予告されていることに気づかないまま行動する。そうして彼は殺される。

船着き場にいた人の多くは、サンティアゴ・ナサールが殺されることを知っていた。

運命の必然性のようなものが物語を支配しており、それが回顧される形で、落ち着いた口調で、淡々と語られる。淡々としているのは「わたし」の語りだけではない。登場人物もまたどこか落ち着いている。一番感情を表しているのは怒りに身を震わせている双子の兄弟だが、彼らにしても、人を殺すといいふらして誰かに止めてもらいたいという気持ちがあると語られている。極め付けは殺された本人、サンディエゴ・ナザールの最期で、ナイフで滅多刺しにされたあと百メートル以上歩いて「わたし」の叔母、ウェネフリーダ・マルケス(名前から分かるように、「わたし」はガルシア・マルケス自身の仮託であるらしい)に会うと、こう言う。

「おれは殺されたんだよ、ウェネ」

殺された人間が冷静に自分が殺されたと言う。幻想的ですらある。

運命的必然性については繰り返し描写される。例えば、第二部の最後、

彼女が何気なく挙げたその名は、しかし、はるか昔からすでに宣告されていたのである。

や、第四部の最初、

宿命が彼に名指しで与えた場所と任務がなんだったのか——

といった文章に現れている。私が見過ごしただけで他にもそういう表現はいくつもあったと思う。なんか普段は裏口使うけどその日は双子がいた表玄関を使ったとか。殺人があまりにあっさり当然のこととして書かれるので、悲劇なのか喜劇なのかわからない感じがある。不条理劇というのが近そう。

多分他に語るべきことはあるのだけど、だいたい後書きに解説されていた。

ガルシア=マルケスの作品に絶えずつきまとうのは、崩壊感覚と、表現は不適当かもしれないが、冠婚葬祭である。そして崩壊するあるいは崩壊したのは、共同体、別けてもその人間関係である。

また、本作がルポルタージュとして書かれるはずで、モデルとなる事件があったということも書かれている。他にも、

  • 5つに分けた構成と殺人を最後に持ってきて読者に鮮烈な一撃を喰らわせる巧みさ。
  • 近代の象徴として鉄道やT型フォードをバヤルド・サン・ロマンが持ち込んだことによる崩壊の暗示。
    • 第四部でのアンヘラの生まれ変わりと中年になった二人の再会。訳者はここに新しい物語の萌芽があると指摘している。

とか書いてある。なるほど。

閉ざされた共同体が舞台なので登場人物の関係が入り組んでいるが、中編なのでサクッと読める。